抜歯時の注射針破損事件
Top 最終更新日 2019/07/19

■ 札幌地裁判決 平成17年11月2日

# 概要

抜歯手術に際して行った麻酔時に、注射針が折れて患者の右上顎部組織内に迷入した事例。歯科医師に過失があるとして不法行為に基づく損害賠償が認められた。

# 主文

1 被告は、原告に対し、1717万8985円及びこれに対する平成15年1月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、これを5分し、その2を原告の、その余を被告の各負担とする。
4 この判決は、原告勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

#  事実及び理由

第1 請求
被告は、原告に対し、2903万6708円及びこれに対する平成15年1月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2 事案の概要
本件は、被告の開設する歯科医院で原告が被告から抜歯手術を受けた際、麻酔に使用する注射針の選択を誤るなどの被告の過失により、使用した注射針が折れて原告の右上顎部組織内に迷入し、これにより後遺症が残存したと主張して、原告が、被告に対し、不法行為又は診療契約の債務不履行を理由として、損害の賠償を求めた事案である。

1 争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実

(1) 当事者等
被告は、肩書住所地において「A歯科医院」の名称で歯科医院を開設している歯科医師である(以下、同歯科医院を「被告歯科医院」という。)。
原告(昭和52年●●月●●日生)は、平成15年1月10日の後記本件事故当時、B大学大学院工学研究科(システム情報工学専攻)の大学院生であり、同年3月に同大学院を卒業して、同年4月にC会社に就職し、東京都所在のC会社研究所に配属されて、肩書住所地から通勤している。

(2) 原告の右上顎部組織内に注射針が迷入するに至った経緯
ア 原告は、顎を開閉するたびに右耳の奥でゴリゴリと音がする症状があったことから、平成15年1月10日午前10時30分ころ、右顎の痛みを主訴として被告歯科医院を受診し、もって、被告との間で歯科治療のための診療契約を締結した。
  被告は、原告を診察した結果、右側上顎第3大臼歯(いわゆる親知らず、以下「本件智歯」という。)と右側下顎第2大臼歯の咬頭干渉による顎関節症と診断し、原告に対し、治療方法として本件智歯の抜歯を勧めたところ、原告はこれに同意した。
イ 被告は、同日午前11時ころ、本件智歯を抜歯するため、1.8ミリリットルの麻酔液を3回に分けて注入することとし、長さ21ミリメートル、太さ0.3ミリメートルの注射針を本件智歯の根尖相当部と口蓋側の2箇所に刺入したところ、刺入部の組織が硬かったため、針尖が丸くなり刺入しづらくなった。
 そこで、被告は、組織の損傷防止と刺入し易さを考慮して、長さ14ミリメートル、太さ0.26ミリメートルの注射針(以下「本件注射針」という。)に替えた上、同注射針を電動麻酔器を用いて強圧をかけずに刺入し、麻酔液を注入した。その後、被告が本件注射針を抜こうとしたところ、同注射針は、電動麻酔器本体の根元から折れ(長さは約14ミリメートル)、原告の右上顎部組織内に破折した注射針が迷入した(以下、本件注射針のうち原告の体内に残存した部分を「本件残存針」といい、本件残存針が原告の体内に残存したことを「本件事故」という。)。
  被告は、本件智歯を抜歯した後、オルソパントモによるX線撮影を行い、その画像により、原告の上顎頭の近心付近に本件残存針があるのを確認した。そこで、被告は、札幌医科大学医学部附属病院口腔外科(以下「札幌医大」という。)に事情を説明して、診断と治療を依頼するともに、原告に対し、注射針が折れて原告の体内に迷入したことを説明し、札幌医大を受診するよう勧めた。原告はそれを受けて、同日直ちに札幌医大を受診し、CT撮影を行った結果、上顎結節から翼状突起にかけて破折片(本件残存針)が認められた。
ウ 本件事故が発生したのは、被告が、本件注射針刺入部位の組織が硬かったにも拘わらず、細い針である本件注射針を使用したため、刺入後にこれを抜くに際して本件注射針が破折して、本件残存針が原告の右上顎部組織内に迷入、残存したものであり、被告の注射針の選択に過失があったものと認められる。

(3) 本件事故後の原告の治療経過の概要
ア 原告は、本件事故当日の平成15年1月10日から同年2月19日まで札幌医大に通院して診察を受けた(通院実日数6日間)後、同日以降北海道大学病院(当時は北海道大学歯学部附属病院、以下「北大病院」という。)に通院し、本件残存針を摘出するため同月28日に同病院に入院し、同年3月3日に右上顎異物除去術(以下「本件摘出術」という。)を受けたが、本件残存針を摘出することはできなかった。その後、原告は、同月8日に同病院を退院し(入院日数9日間)、同月26日まで経過観察のため同病院に通院した(通院実日数8日間)(甲A1ないし4)。
イ 原告は、同年4月に肩書住所地に転居した後、同年6月17日から同年7月10日まで防衛医科大学病院(以下「防衛医大」という。)に通院した(通院実日数3日間)が、本件事故後の経過観察については、北大病院における本件摘出術の担当医であったD歯科医師(以下「D歯科医師」という。)が原告の状態を最もよく理解していること、防衛医大の診療体制等が原告の都合に合わなかったことなどの理由により、同年5月以降も、北大病院への通院を継続している(同年12月26日までの通院実日数は12日間。甲C1、2の3、2の5)。

2 争点及びこれに対する当事者双方の主張

(1) 原告に生じた後遺障害の程度(争点(1))

(原告の主張)
ア 原告には、本件事故による後遺症として、以下のような症状が出ている
(ア) 本件残存針の存する箇所付近(以下「本件患部」という。)に違和感、痛み、痺れを感じ、また右前頭部の頭痛を断続的に感じており、痛みが強い時には痛み止めを服用している。
(イ) また、本件患部に違和感を常時感じているため、右肩に何かが乗っているようで右半身に疲れを感じる、集中力を維持するのが困難である、すっきりと眠れず睡眠不足を感じるなどの状態が続いている。
(ウ) さらに、1月に1、2回の頻度で、約1週間にわたって、本件患部の痛みや痺れと頭痛がひどくなり、本件患部から右肩及び右手に痺れやけだるさが広がり、右半身に痺れを感じて、足もとがふらつくほどである。
(エ) また、仕事上のプレゼンテーション等で長時間の会話をした後や、食後などに本件患部に痛みが発生し、また常時ある鈍い痛みのせいでけだるさがあり、疲れも感じる。
イ 本件患部の痛みや痺れ等は、本件残存針が多くの血管や神経のある部位に残存し、針が神経等に触れることにより発生する神経症状である。そして、自動車損害賠償保障法施行令2条による後遺障害別等級表所定の後遺障害等級(以下、単に「後遺障害等級」という。)は、その12級12号として「局部に頑固な神経症状を残すもの」を定めているところ、これは他覚的所見のある神経症状に適用されるものであり、本件では本件残存針の存在がCTやレントゲン画像上明らかであるから、原告の症状は同等級12級12号に当たるし、少なくともそれと同等の等級であることが明らかである。

(被告の主張)
ア 原告の現在の症状については不知。
イ Eクリニック歯科医長F歯科医師作成の意見書(乙A2、以下「F意見書」という。)によれば、本件残存針の迷入部位が上顎結節から翼状突起にかけてであれば、この位置は上顎神経及び視神経の分枝される正円孔・眼窩下孔には遠く、大きな神経節もないので、上顎歯牙及び口蓋部に知覚障害(痛み及び痺れ)が出現する可能性はあるものの、全身に影響を及ぼし、かつ日常生活に障害が出る程の痛みや痺れが発生するとは考えにくいとされているから、原告に現在生じている痛みや痺れは、日常生活に障害が出る程のものではなく、原告の神経症状は後遺障害等級12級12号の「頑固」なものに当たるとは認められない。また、一般に組織内へ埋入した破折針は、数回の顎運動によって筋繊維の走行やその運動方向に沿って無害な位置に移動し、長期間にわたってその部位にとどまり、後遺症をきたすことがほとんどないと言われている(甲B4)。さらに、F意見書によれば、原告は本件口頭弁論終結時27歳であり、コンタクトスポーツを常時行うなどの職業上の問題がなければ、時間の経過とともに残存針の周囲は線組化(周囲組織に包まれてカプセル化すること)し、このまま同じ位置に残存する可能性が高いとされている。よって、本件残存針が原告の体内に存在しているからといって、原告に後遺症をきたすことはほとんどない。以上を総合すれば、原告の後遺症が後後遺障害等級12級12号に当たるということも、それに相当するということもできず、原告の後遺障害は、せいぜい後遺障害等級14級10号の「局部に神経症状を残すもの」に当たるというべきである。

(2) 本件事故により原告に生じた損害の額(争点(2))

(原告の主張)
 原告は、被告の前記不法行為又は債務不履行により、後記アないしエのとおり、合計2903万6708円の損害を被った。
 なお、原告には、本件残存針の今後の移動により、より重篤な後遺症や死亡等の結果が発生することも考えられ、それにより新たな損害が生じうるところ、原告は、本件訴訟において、上記の将来の損害については請求しておらず、本件請求は、上記の将来に生じうる損害との関係では、本件不法行為等に基づく全損害の一部請求となるものである。
ア 治療費及び交通費等の実費            28万6365円
  平成15年12月26日から平成17年1月7日までの治療費及び交通費等として、合計28万6365円を要した。
イ 慰謝料                        500万円
  本件事故後の入院及び通院期間、後遺症の状況、今後3年程度は半年に1度の割合で北大病院に通院が必要であり、その後も1年に1回程度の通院が一生涯必要となること、脳の近接部位に鋭利な金属が残存していることに対する恐怖感・不安感等を考慮すれば、慰謝料としては500万円が相当である。
ウ 逸失利益                  2105万0343円
(ア) 基礎収入
  原告は、本件事故時である平成15年1月当時25歳であり、同年4月に就職しているところ、原告のような若年労働者の場合、同年代の者の平均賃金と異ならない賃金を得ている場合には、全年齢の平均賃金をもって逸失利益を算定すべきである。そして、原告の平成15年4月から11月までの平均月収が24万3311円、同年6月のボーナスが11万0341円、同年12月のボーナスが44万2470円であることから、これを年収に換算すると347万2540円となり、また、平成16年1月から6月までの平均月収が30万0524円、同年6月のボーナスが45万1959円であることから、これを年収に換算すると450万0721円となるところ、平成14年賃金センサスの第1巻第1表産業計・企業規模計・男子労働者・大卒の25歳ないし29歳の平均賃金は437万2200円であるから、原告は同年代の平均賃金と異ならない収入を得ているということができ、原告の逸失利益は、同賃金センサスの男子労働者・大卒・全年齢平均の年収である674万4700円を基礎収入として計算すべきである。
(イ) 労働能力喪失率
  前記争点(1)の原告の主張に記載のとおり、原告の後遺障害は後遺障害等級12級12号に当たるから、労働能力喪失率は14パーセントというべきである。
(ウ) 労働能力喪失期間
  本件事故当時、原告は25歳であったところ、再手術が困難で本件残存針が一生涯体内に残存することから、労働能力喪失期間は67歳までの42年間である。
(エ) 中間利息の控除方式
  まず、中間利息の控除割合については、最高裁判所平成16年(受)第1888号、平成17年6月14日第三小法廷判決(以下「平成17年判決」という。)がなされたことから、これに従って年5パーセントを採用することとするが、年5パーセントという数値は、現価算定の割引率として実社会における実質的な運用利益と比較してあまりにも高率に過ぎるところ、控除率につき、社会の実態を無視した利率を採用しながら、控除方式のみは社会の実態に合わせてライプニッツ方式を採用し、複利とするなどということは、一貫しないばかりか、結果の妥当性を欠くものである。また、同判決は、控除率を年5パーセントとする理由として、民事執行法88条2項、破産法99条1項2号、民事再生法87条1項1号、2号、会社更生法136条1項1号、2号を援用しているところ、これらの規定はいずれもホフマン方式による中間利息控除を定めたものであるから、将来の逸失利益を現在価額に換算するために控除すべき中間利息についても、ホフマン方式を採用することが論理的に一貫する。さらに、同判決が金員は年5パーセントの割合で増殖することを擬制するのであれば、それに重ねてライプニッツ方式を採用することにより、金員は年5パーセント複利で増殖することを擬制する結果になるが、そうすると、加害者が損害賠償の支払を遅らせた場合には、加害者は支払うべき金額につき年5パーセント複利で利殖をすることになり、一方で損害賠償請求権の遅延損害金は年5パーセント単利であるため、加害者は支払を遅らせれば遅らせるほど、複利と単利の差額分を利得してしまうことになる。よって、ライプニッツ方式の採用は、遅延損害金により加害者の債務の履行を促進するという法の趣旨とも矛盾するというべきである。
  以上によれば、中間利息を控除するに際しては、ライプニッツ方式ではなく、より被害者に有利なホフマン方式を採用し、42年のホフマン係数22.2930を用いるべきである。
(オ) 以上に基づき、原告の逸失利益の現価を算定すると、下記計算式のとおり、2105万0343円となる。
 (計算式) 6,744,700×0.14×22.2930=21,050,343
エ 弁護士費用 270万円
  原告は、本件訴訟手続を原告訴訟代理人らに委任し、弁護士費用相当額として270万円の支払を約束した。

(被告の主張)
 原告の主張のうち、原告が本件訴訟手続を原告訴訟代理人らに委任したことは認めるが、その余は不知ないし争う。

第3 争点に対する当裁判所の判断

1 原告の本件事故後の症状及び生活状況等について

  前記争いのない事実等、証拠及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、同認定を左右するのに足りる証拠はない。

(1) 原告は、本件事故後に札幌医大で診察を受けた際、担当医から、本件残存針が迷入した部位は細かな血管や神経が多数存在するところであり、手術で摘出するのは困難であって、本件残存針がこのままの状態で安定していれば問題はないと思われるが、何かのきっかけで針が移動する可能性はあり、針が脳に近づいた場合には、生命の危険がある上、手術で摘出することは今以上に困難になるなどと説明を受けたため、平成15年3月のB大学大学院卒業を控えて修士論文を作成しなければならない時期に、生命の危険が生じうる可能性があるほどの事態が生じたことで強く悩んだ。その後、同医大の担当医から、摘出術が成功する可能性が低いため経過観察する方針である旨告げられた原告は、本件残存針が脳近くの体内に残ったままとなり、さらに移動して神経、血管、脳を傷つける可能性があることを強く心配して、他の医師の見解を聞くことを希望し、北大病院の紹介を受けて同病院で診察を受けることとした。そして、北大病院では、摘出術は難しい手術で、成功率は50パーセント程度であると思われることや後遺症があり得ることなどの説明を受けたが、手術を受けることを決意し、同月3日に5時間に及ぶ本件摘出術を受けたものの、本件残存針を摘出することはできなかった。同手術後、原告は、手術部位に大きな腫れがあったものの、卒業及び内定していた現在の職場への就職準備のため、抜歯前の同月8日に退院し、痛み、不安、それらによる食欲不振や寝不足等を抱えながら、修士論文の作成や就職準備をすることを余儀なくされ、また同手術の影響で口を開けることができなくなり、強い痛みに耐えながらリハビリをする必要があったため、卒業旅行に参加したり卒業生同士の会合に出席することもできなかった。

(2) 原告は、本件摘出術を受けた後、平成16年8月ころまで、常時、本件患部に違和感、痛み、痺れを感じ、また右前頭部の頭痛が断続的にあって、痛みが強い時には処方を受けた痛み止めを服用していた。また、上記違和感から、右肩に何かが乗っているような感じがして右半身に疲れを感じ、集中力の維持が困難であったり、すっきりと眠れないため睡眠不足を感じるなどの状態が続いた。さらに、1か月に1、2回の頻度で、約1週間にわたって、本件患部の痛みや痺れ、右前頭部の頭痛がひどくなり、本件患部から右肩及び右手に痺れやけだるさが広がって、右半身に痺れを感じて足もとがふらつくといった症状が生じることもあった。特に、平成16年4月末に北大病院で診察を受けた帰りの飛行機内では、息が一瞬止まり、深呼吸を数回して息を整えるのに数分かかるほどの激痛を右顎部分に感じて、右顎部分から右半身にかけての痛みが2週間ほど続き、同年8月に飛行機に乗った際にも、右顎の部分に強い痛みを感じ、しばらく頭痛が続くことがあった。また、同年6月末の仕事上の企画発表を準備するため、議論を頻繁に行うようになった際、顎の部分に違和感を感じ、20ないし40分程度の口頭発表の練習をした後には、痺れるような痛みを感じた。
 平成16年8月以降は、原告は激しい痛みを感じることは大分なくなってきたものの、仕事上のプレゼンテーション等で長時間の意見発表や会話をした後、風呂に入った後及び食後は鈍い痛みが出現し、また、右半身のけだるさや倦怠感、右顎の後の方からの鈍い痛みと頭痛は継続しており、集中力や仕事の能率はかなり低下していると感じている。

(3) 北大病院における原告の担当医であるD歯科医師は、上記の原告の症状のうち、「通常はそれほど強い痛みではないが、時々1週間くらい続けて痛み、痺れが強くなることがあり、その場合には頭痛も生じる。仕事で長時間にわたって企画発表などをした場合には患部に痺れるような痛みがある。入浴後、食後にも頭痛が生じることがある。」という症状は、本件残存針が直接的に作用しているというよりは、むしろ本件摘出術が原因ではないかと考えられるところ、これらの症状は少しずつ良くなってきているようであるが、今後どれくらいの期間で改善していくか、また完全に消失するか否かは何ともいえず、本件摘出術の手術侵襲が及んだ部位は常時動きがある部位であるため安静を保つことは困難であり、治療に時間を要していると思われ、今後もいわゆる「古傷が痛む」という症状が生じる可能性があるとしているほか、航空機内での原告のいう「激痛」については、気圧の関係があると思われるものの、詳細な医学的機序は不明であるとしている。

(4) また、D歯科医師によれば、本件残存針は、平成15年5月2日撮影のレントゲン写真及び同年7月18日撮影のCT画像においては、それぞれ前回の位置よりやや後方に移動していたが、同年12月26日、平成16年4月及び同年7月26日撮影のCT画像においては、明らかな移動は認められず、遅くとも甲C34の2の意見書を作成した平成17年2月の時点では、本件残存針は外側翼突筋の後面に付着したような状態で安定していると思われ、この状態のままで安定していれば、大事に至る可能性は低いだろうと思われるとし、今後の経過観察については、特に異常がなければ1年に1回程度の定期的な経過観察とCT撮影で足りるが、症状の悪化や新たな症状の発現がある場合には、CT撮影等の検査を早急に行う必要があると判断している。
  なお、本件残存針の残存部位は、細かな血管や神経が多数ある所であり、現時点では、本件残存針の摘出は困難な状態である。

2 争点(1)(原告に生じた後遺障害の程度)について

 上記認定事実に基づき、原告の後遺障害の程度について判断するに、本件残存針の上記移動状況に照らすと、本件残存針は、遅くともCT画像上明らかな移動が認められなくなった平成15年12月ころには外側翼突筋の後面に付着したような状態で安定するに至り、原告の右上顎の神経等が集中している部位に残存して摘出困難な状態となっているものというべきであるから、その症状の推移をも併せ考慮すると、この時点で症状は固定したものと認めるのが相当である。そして、原告の現在の症状は、前記1(2)で認定したとおりであって、激しい痛みを感じることは大分なくなってきているものの、常時ある鈍い痛みのせいでけだるさがあり、特に仕事のため長時間の発表や会話をした後などには、通常より強い鈍い痛みが出現し、原告としては本件患部の痛みなどのため集中力や仕事の能率が低下していると感じているというのであるから、これらの事情を総合すると、原告は通常の労務に服することはできるものの、ときには労働に差し支える程度の神経症状が出現しており、その原因は本件残存針の存在ないしその摘出術の合併症によるものということができ、これらは本件残存針の存在という他覚的所見の裏付けがあるということができるから、原告の後遺障害の程度は、後遺障害等級12級12号の「局部に頑固な神経症状を残すもの」の程度に達していると認めるのが相当である。
 これに対し、被告は、本件残存針の残存部位から、上顎歯牙及び口蓋部に痛み及び痺れが出現する可能性はあるものの、全身に影響を及ぼしかつ日常生活に障害が出る程の痛みや痺れが発生するとは考えにくく、原告の神経症状は後遺障害等級12級12号の「頑固」なものに当たるとは認められない旨、時間の経過とともに本件残存針の周囲は線組化し、このまま同じ位置に残存する可能性が高く、本件残存針が存在しているからといって、原告に後遺症をきたすことはほとんどないのであり、本件残存針の存在をもって原告の後遺症が同等級12級12号に当たるということも、それに相当するということもできないなどと主張し、その主張に沿う証拠として、F意見書などを指摘する。確かに、F意見書には、被告の上記主張を裏付けるかのような記載があるものの、同意見書は、平成15年9月1日までに作成された甲A1ないし4の各診断書及び同年1月10日に被告歯科医院において撮影されたレントゲン写真3枚を資料とし、同年9月1日の時点で迷入異物(本件残存針)がやや移動していることを前提に作成されたものであって(乙A2、弁論の全趣旨)、原告を直接診察してはおらず、また、原告に関する診療録を具体的に精査した上での意見でもないことから、原告の症状の推移及び現在の状態を正確に反映したものということはできない。また、その内容も、本件残存針の残存部位等の状況を基にして、後遺障害が発生する可能性について一般的な医学的知見を述べるという側面が強い上、残存針に起因する神経症状について特段の臨床的裏付けが示されているわけではなく、前記認定のような原告が現実に感じている症状自体を否定するような内容のものということもできない。さらに、前記認定のとおり、原告の現在の症状の原因は、本件残存針の存在そのものではなく本件摘出術の影響であるとも考えられるとされているところ、そうであるとすれば、仮に本件残存針の残存部位が後遺症の発生をきたすようなものでないとしても、それによって直ちに原告に後遺症が生じたこと自体が否定されるものということもできない(なお、本件摘出術は、本件事故に対する治療行為として実施されることが通常予見可能というべきであるから、原告の後遺障害の原因が本件摘出術であるとしても、それにより本件事故との間の因果関係が否定されるものではない。)。よって、同意見書があることを考慮しても、前記認定が左右されるものではない。
  そして、他に前記認定を左右するのに足りる的確な証拠はない。

3 争点(2)(本件事故により原告に生じた損害の額)について

(1) 前記争いのない事実等(2)の事実によれば、被告には、原告に対する治療行為として麻酔注射を行うに際し、患者の体内に注射針を迷入させることのないよう、適切な太さの注射針を選択した上で注射を行うべき注意義務があるのにこれを怠り、注射針の刺入部位の組織が硬かったために注射針を刺入しづらい状況があったにも拘わらず、径の細い本件注射針を選択して麻酔液を注入したため、これを抜くに際して同注射針を折って本件残存針を原告の右上顎部組織内に迷入させた過失があるというべきであるから、被告は、原告に対し、上記不法行為に基づいて、原告が被った損害を賠償すべき責任がある。
(2) そこで、被告の不法行為によって原告の被った損害額について以下検討する。
ア 治療費及び交通費等の実費について        28万6365円
  証拠(甲C1、2の1ないし7、3、4の1ないし4、31、32の1ないし9、33、35)及び弁論の全趣旨によれば、原告は、平成15年12月25日から平成17年1月6日までの間、肩書住所地から北大病院に通院したことにより、診察料、薬代、航空運賃等の交通費、レントゲンフィムルコピー代として、合計28万6365円を支出したことが認められ、これらはいずれも本件と相当因果関係の範囲内の損害と認められる。
イ 慰謝料について                    400万円
 まず入通院慰謝料については、前記争いのない事実等で認定したとおり、北大病院への入院日数が9日間、症状固定日ころである同年12月26日までの通院実日数が札幌医大6日間、北大病院12日間(ただし、平成15年2月19日は両病院に通院している。)、防衛医大3日間の合計20日間であり、これに、本件事故が発生するに至る経緯、本件残存針が迷入した部位、本件残存針の残存状況、原告に対する治療経過、その間の原告の症状、原告の大学院卒業及び就職に関する経過その他一切の事情を併せ考慮すれば、原告の入通院慰謝料としては、100万円が相当である。
 次に後遺障害慰謝料については、前記のとおり原告に生じた症状の後遺障害等級は12級12号の程度に達しているものと認められること、原告の右上顎部組織内に本件残存針が存在しており、その部位に照らすと、今後本件残存針が何らかの原因で移動した場合には付近の神経等を傷つけて重篤な後遺症が発生する可能性がないとはいえず、その不安を原告が払拭できていないこと、本件残存針を摘出することが極めて困難であることから、今後も経過観察のための通院が一生涯必要であると考えられること、その他本件に顕れた一切の事情を併せ考慮すれば、原告の後遺障害慰謝料としては、300万円が相当である。
  以上より、本件で原告の被った精神的苦痛を慰謝するには、合計400万円の慰謝料の支払をもってするのが相当である。
ウ 逸失利益について              1139万2620円
(ア) 基礎収入について
  前記争いのない事実等並びに証拠(甲C5の1ないし9、27の1ないし5、29)及び弁論の全趣旨によれば、原告は平成15年1月の本件事故時点では、25歳の大学院生であり、その後同年4月に現在の就職先に就職して、同年4月から11月までの給与等として合計183万1451円、同年6月の特別手当として11万0341円、同年12月の特別手当として44万2470円の合計238万4262円の支給を受け、また平成16年1、2、5、6月の給与等として合計116万5081円、同年6月の特別手当として45万1959円の合計161万7040円の支給を受けていることが認められ、以上によれば、原告の年収は、平成15年には約360万円程度、平成16年には約485万円程度であったことが推認できる。
  一方、平成15年賃金センサス第1巻第1表産業計・企業規模計・男子労働者・大卒の25歳ないし29歳の平均年収額が435万2700円、同賃金センサス男子労働者・大卒・全年齢平均の平均年収額が658万7500円であることは、当裁判所に顕著である。
  以上を総合すると、原告は、平成15年から平成16年にかけて、上記賃金センサスの男子労働者・大卒の25歳ないし29歳の平均年収額におおむね相当する額の収入を得ていたというべきであるから、生涯にわたって男子大卒者の平均年収と同程度の収入を得る蓋然性があると認めるのが相当である。よって、逸失利益算定の前提としての原告の基礎収入は、上記全年齢平均の年収額に相当する658万7500円とするのが相当である。
(イ) 労働能力喪失率について
  原告の後遺障害は、前記認定のとおり、後遺障害等級12級12号の「局部に頑固な神経症状を残すもの」の程度に達しているということができるが、その労働能力喪失率については、前記認定のとおり、本件患部の違和感、痛み、痺れが常時あったものの、北大病院における主治医であるD歯科医師によれば、その症状は少しずつ良くなってきているようであり、原告本人としても、平成16年8月以降は激しい痛みを感じることが大分なくなっているというのであるし、長時間のプレゼンテーション等でなければ仕事上の影響もそれほど大きいとまでは言い難いことも窺われることに照らすと、その労働能力喪失率は10パーセントを超えることはないと認めるのが相当であり、他に同認定を左右するのに足りる的確な証拠はない。
(ウ) 労働能力喪失期間について
  前記2で認定したとおり、原告の症状固定時期は平成15年12月ころであるから、その時点で原告は26歳に達しているところ、そのころの原告の後遺障害は、当初に比べて少しずつ良くなってきていると一応評価できるものの、本件残存針を摘出することは極めて困難であって、その原因を除去することができず、また、D歯科医師の前記意見書(甲C34の2)によれば、原告の症状が完全に消失するか否かは何とも言えず、現在でも痛み止めを処方していて、手術侵襲の及んだ部位が常時動きのある部位で安静を保つことが困難であることから治癒に時間を要していると考えられることなどの事情を総合考慮すると、原告の労働能力喪失期間は、就労可能年齢67歳までの41年間に及ぶと認めるのが相当であり、同認定を左右するのに足りる的確な証拠はない。
(エ) 中間利息控除について
  民法404条において民事法定利率が年5パーセントと定められたのは、民法の制定に当たって参考とされたヨーロッパ諸国の一般的な貸付金利や法定利率、我が国の一般的な貸付金利を踏まえ、金銭は、通常の利用方法によれば年5パーセントの利息を生ずべきものと考えられたからであり、現行法は、将来の請求権を現在価額に換算するに際し、法的安定及び統一的処理が必要とされる場合には、法定利率により中間利息を控除する考え方を採用している。例えば、民事執行法88条2項、破産法99条1項2号(旧破産法(平成16年法律第75号による廃止前のもの)46条5号も同様)、民事再生法87条1項1号、2号、会社更生法136条1項1号、2号等は、いずれも将来の請求権を法定利率による中間利息の控除によって現在価額に換算することを規定している。損害賠償額の算定に当たり被害者の将来の逸失利益を現在価額に換算するについても、法的安定及び統一的処理が必要とされるのであるから、民法は、民事法定利率により中間利息を控除することを予定しているものと考えられる。このように考えることによって、事案ごとに、また、裁判官ごとに中間利息の控除割合についての判断が区々に分かれることを防ぎ、被害者相互間の公平の確保、損害額の予測可能性による紛争の予防も図ることができる。上記の諸点に照らすと、損害賠償額の算定に当たり、被害者の将来の逸失利益を現在価額に換算するために控除すべき中間利息の割合は、民事法定利率によらなければならないというべきである(平成17年判決)。
  次に、中間利息控除の控除方式については、従来の最高裁判決において、ライプニッツ方式又はホフマン方式のいずれによって算定しても不合理ではないとされていたところ、特に控除すべき中間利息の控除期間が長期にわたる若年者等の事例において、全年齢平均賃金とライプニッツ係数の組合せによるいわゆる東京方式と初任給固定賃金とホフマン係数の組合せによるいわゆる大阪方式のいずれを採用するかによって算定結果に大きな差異が生じることが問題とされ、東京地方裁判所、大阪地方裁判所及び名古屋地方裁判所それぞれの交通事件を専門的に取り扱う部が協議した結果、平成11年11月、大量の交通事故による損害賠償請求事件の適正かつ迅速な解決の要請、地域間格差の是正、被害者相互間の公平及び損害額の予測可能性による紛争の予防などの観点から、交通事故における逸失利益の算定方式について共同提言がなされるに至った。同共同提言によれば、原則として、幼児、生徒、学生の場合、専業主婦の場合及び比較的若年の被害者で生涯を通じて全年齢平均賃金又は学歴別平均賃金程度の収入を得られる蓋然性が認められる場合については、基礎収入を全年齢平均賃金又は学歴別平均賃金によることとし、中間利息の控除方法については、特段の事情のない限り、年5パーセントの割合によるライプニッツ方式を採用することとされ、実務上、同共同提言が取り入れられて、現在においては、逸失利益算定に関する中間利息の控除につき、実務の大勢は、賃金センサス第1巻第1表の産業計・企業規模計・男子又は女子労働者の全年齢平均賃金又は学歴別平均賃金を基礎収入とした上、年5パーセントの割合によるライプニッツ方式を採用して逸失利益を算定しており、このような取扱いは一定の合理性を有するものというべきである。
  そして、逸失利益の算定において、適切かつ妥当な損害額を定めるためには、基礎収入の認定方法と中間利息の控除方法とを、具体的妥当性をもって整合的に関連させることが必要であると解されるから、本件において原告の逸失利益を算定するについても、前記共同提言の趣旨及び裁判実務の運用状況をも併せ考慮すると、基礎収入につきいわゆる全年齢平均賃金を用いるとともに、年5パーセントの割合によるライプニッツ方式を採用するのが相当である。
  これに対し、原告は、平成17年判決のとおり控除率を5パーセントとするとしても、控除方式としては被害者に有利なホフマン方式を用いるべきであること、同判決は民事執行法88条2項、破産法99条1項2号、民事再生法87条1項1号、2号、会社更生法136条1項1号、2号を援用しているところ、これらの規定はいずれもホフマン方式による中間利息控除を定めたものであるから、逸失利益の算定において控除すべき中間利息についても、ホフマン方式を採用することが一貫すること、同判決が金員は5パーセントで増殖することを擬制するのであれば、それに重ねてライプニッツ方式を採用することにより、加害者が損害賠償の支払を遅らせれば遅らせるほど、複利と単利の差額分を利得してしまうことになって、遅延損害金により加害者の債務の履行を促進するという法の趣旨と矛盾することなどから、中間利息控除方式としてはホフマン方式を採用すべきである旨主張する。
  しかしながら、平成17年判決は、中間利息の控除割合を民事法定利率(年5パーセント)によらなければならないとしているにとどまり、控除方式については何ら触れていない。そして、年5パーセントの割合によるライプニッツ方式を採用することに一定の合理性があることは前記説示のとおりであり、また、原告が指摘する法の各規定については、破産法99条1項2号(旧破産法(平成16年法律第75号による廃止前のもの)46条5号も同様)の趣旨は、破産法99条1項1号(旧破産法(平成16年法律第75号による廃止前のもの)46条1号も同様)において破産手続開始後の利息請求権を劣後的破産債権としたこととの均衡上、無利息債権についても破産手続開始後弁済期に至るまでの中間利息を控除するとしたものであり、民事再生法及び会社更生法の各規定は、それぞれ再生債権者及び更生債権者間の議決権の衡平の観点から期限未到来の無利息債権について中間利息を控除することとしたものであり、民事執行法の規定は、期限未到来の無利息債権につき、配当における他の債権者との衡平の観点から実質的に中間利息を控除することとして定められたものであると解されるから、これらの規定があることをもって、中間利息控除方式について一般的にホフマン方式を採用する趣旨であるということはできない。さらに、中間利息の控除割合を年5パーセントとした上で控除方式をライプニッツ方式とした場合には、履行を遅らせる加害者に利得を得させる結果となり、法の趣旨に反するとの点についても、民法404条所定の民事法定利率は不法行為等の加害者のみに適用されるものではなく、同法は加害者の履行を促進する趣旨で定められたものとはいえないから、その前提の理解において不適切であり、これを採用することはできない。
  以上のとおりであるから、原告の主張をたやすく採用することはできない。
(オ) そうすると、原告の逸失利益を算定するについては、658万7500円を基礎収入とし、これに労働能力喪失率10パーセントを乗じた上、ライプニッツ式計算方法を用いて(年5分の割合による41年間のライプニッツ係数は17.2943である。)中間利息を控除して計算すると、下記計算式のとおり1139万2620円となる。
 (計算式)6,587,500×0.1×17.2943=11,392,620(小数点以下切捨て)
エ 上記アないしウの合計額は、1567万8985円となる。
オ 弁護士費用について
  弁論の全趣旨によれば、原告は、本件訴えの提起、追行を原告訴訟代理人らに委任し(この点は当事者間に争いがない。)、相当額の報酬の支払を約束したことが認められるところ、本件事案の内容、主な争点、難易度、審理経過、認容額等の事情を総合考慮すると、本件における被告の不法行為と相当因果関係のある損害として被告に請求しうる弁護士費用としては、上記認容額の約1割に相当する150万円と認めるのが相当である。

# 結論

 以上によれば、原告の被告に対する不法行為に基づく損害賠償請求は、1717万8985円及びこれに対する不法行為の日である平成15年1月10日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

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